本日はプロジェクトZの一環として、雑司ヶ谷の町探検を開催しました。
案内役はとしま案内人 雑司ヶ谷のガイドさんの磯田さん。
雑司ヶ谷は今回の参加メンバーの中には初めての人もいましたが、目白台で育った私には、親に散歩に連れて行ってもらったり、祖父母とお祭りに行ったりした懐かしい場所です。まずは天保7(1836)年作成の江戸名所図会(←)江戸時代の地図を渡され、鬼子母神の参道へ。いきなりワクワク。
江戸時代、この界隈は江戸の外れでしたが、当時の富裕層の中心であった商人たちが一日がかりで遊びに来る場所だったとのこと。娯楽のない当時は、寺社がテーマパークの代わりをしており、参道にはお食事処が栄え、護国寺あたりにあったお茶屋で一遊びしてから帰るというのが主な順路だったとのことです。
ちょうど道が矩形に曲がる手前にあった「めうがや(みょうがや)」というのが流行りのお店で、当時の江戸の御料理番付表にもしっかり名前が残っています!ミシュランで言えば3つ星くらい?とガイドの磯田さんが教えて下さいました。
こちらの広重の風物画にも残っていますが、当時この辺りにはケヤキの木が植わっており、そのうちの4本がまだ残っているんです。現在では樹齢400年にもなる大木に育っています。
江戸時代は栄えたこの辺りも、明治の廃仏毀釈で一気に廃れ、戦後はアパートや戸建てが建つ住宅街となってしまいました。少し残念な気も。
いよいよ境内に入ると、左手には樹齢800年以上という銀杏の木。東京で2番目に古いって仰ってたでしょうか。子宝に恵まれない女性が抱き着いて祈願したとか。
お堂に上がらせていただくとお寺の方から丁寧な説明があり、鬼子母神さまがお釈迦様から諭されて鬼の角が取れて仏教に帰依していく様について教えて頂きました。鬼子母神は「きしもじん」と読み、「鬼」の字には角がないのです。今では安産、子育ての神様として親しまれています。お寺のあちこちでザクロのモチーフになっているのは、実が熟して初めて皮が割れることから、親が我が子が成長するまでしっかり見守るということにつながり、また粒が多く子孫繁栄の象徴であることだそうで、随所にザクロが使われていました。
それから鬼子母神の「すすきみみずく」が名物のお土産物になった由来も教えていただきました。昔はこの辺りは、弦巻川の両辺にすすきが茂っていましたが、今では秩父まで行って刈ってくるそうで。最後の作り手が亡くなったことに危機感を抱いた地元の方が保存会を結成し、今では地元の小学生も作り方を学ぶのだそうです。
撮影は禁止でしたが、重要文化財に指定されている古い絵や、加賀藩主前田家から安芸藩浅野家に嫁がれたお姫様が寄進されたというお堂を拝見することができました。1945年3月10日の大空襲で、米軍が天皇家に関連のある護国寺を避けてくれたためか、鬼子母神から護国寺の一帯は焼け残ったそうです。
帰りにはなんとこんなうれしいお土産までいただいちゃいました!みみずく最中。
明治40年にアメリカ人宣教師のマッケーレブさんの居宅として建築されたカーペンターゴシック様式のおうちです。マッケーレブさんは明治25年に来日し、この国にキリスト教的ジェントルマンシップが必要だと考え、現在の4倍ほどあった敷地に寮を建てて学生を住まわせながら宣教活動を行ったそうです。しかしこの学生たちの態度や悪さに辟易して(情けない・・)、もっと早くから教育を始めないと!と考えて、幼稚園を併設したとのこと。現在も雑司ヶ谷保育園として残っています。第二次大戦直前まで日本におり、80歳で帰国してから40歳年下の奥さんを娶ってお子さんができた、と年表に書いてあって、私はそれにただただ驚愕しました。
それから雑司ヶ谷ゆかりの秋田雨雀の年譜というのもこの中にあり、この町の森と人々を愛し、まちの子どもたちに説いたという以下の言葉が心に残りました。「人間というのは勉強が大切なんだよ。正義と悪を自分で判断する頭を持つこと。それが勉強なんだよ。」
それから、雑司ヶ谷霊園で夏目漱石のお墓にお詣り。ほかに小泉八雲、永井荷風、ジョン万次郎などなど、著名人のお墓もあるので、今度は磯田さんにはかまいらーガイドをしてもらおうというお話になりました。最後に吉宗のお鷹部屋の松の木で記念撮影。
それからご紹介いただいた割烹料理屋「酉松」でランチをいただきました。この松花堂弁当が1000円!そして美味しくて。コスパは抜群でした。大満足な遠足でした。
今回何度も通った弦巻通りは、弦巻川という神田川の疎水が流れていたところで、その流れは護国寺に抜けて、音羽通り(そうアルバのオフィスがある!)をとおって神田川に注いでいたそうです。何ともご縁を感じます。今は下がまだ暗渠になっているそうで、マンホールからはざぁざぁと水の音が聞こえました。
昔は蛍が舞う小川だったのが、生活排水が流れ込むようになりどぶ川と化し、東京オリンピック前の首都高の急ピッチの工事の中で、問答無用に埋め立てられた跡とのこと。くねくねとした通りは、確かに生きた川のようで少し切ない気持ちになりました。
ガイドの磯田さんからの、とにかく若い人の力で活気のある街作りをしてほしい、というお言葉を胸にこれから何ができるか色々議論してまいりたいと思っています。
文責 明日香