2015年6月29日月曜日

雑誌『BUAISO』 第12回目は「プレゼンテーション(3) ~高コンテクストで森林の民で遮らない日本人」です



プレゼンテーションシリーズ第三回目。どうして日本人の話は伝わりにくいと言われてしまうのか。そして欧米人と話していると、どうしてこうも話を遮られるんだろうか・・自分の英語力が足りないせいなのか、とお思いだった皆様に。
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振り返れば2013年3月に初めてこちらに寄稿した『プレゼンテーション』という記事の中で、日本人は最初から順を追って説明しようとして、スライドやページを順に繰っていこうとするのに、欧米人が割って入って発言するためプレゼンや会議での説明がうまくいかない例がある、というようなことを書きました。これに対しては、海外とのお仕事を担当されている方などから、悲痛な叫びにも近いご賛同をいただいたりして恐縮でしたが、その号においてわたくしは、「恐らくこれは教科書を順に読み、また板書をひたすら写して『順を追って』進む形式の授業に慣れている日本人と、先生と問答しながら進んでいく双方向型の授業を受けている欧米人の対話スタイルの違いではないか」と、結論付けたのでした。また、日本語自体が「優しい言葉」なので交渉に向かない、などと書くに止めました。今号では、それから2年間、引き続き海外と日本の板挟みに合いつつ、いろいろな分野の著作を読み考えたことについて、議論を深めてみたいと思います。すなわち、この日本人と欧米人との会話のギャップは、言語の使い方、思考パターン、会話運びのルールなどにも原因があるのではないか、という話です。
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高コンテクストと低コンテクスト

日本人の研究としても知られる、文化人類学者のエドワード・T・ホール氏が1959年の『沈黙のことば』の中で、「文化はコミュニケイション(まま)である」と説き、さらに『文化を超えて』(1975年)の中で、「言語なくしてはコミュニケーションはありえないのであり、それゆえ、文化もコミュニケーションも言語に依存する」と説き進め、初めて日本の文化を「高コンテクスト」、欧米の文化を「低コンテクスト」という言葉で表現してから既に40年が経ちました。
コンテクストが高い文化では、各個人に内在する「常識」が共通だという前提で、会話自体がその常識や調和を求めて行われるものだというものです。逆に低コンテクストな文化では、「お互いにあたりまえの物はない」という前提で会話が始まるので、会話の量、説明する量も必然的に増えます。
日本の社会における暗黙知、不文律、非関税障壁、腹芸など、海外から見ると理解できない、と言われる要素があるのは、このコンテクスト度が違うから、というのが大きいと思います。また、日本人が海外で見るテレビCMは、商品の名前、値段、特徴を連呼されてうんざり感じることがある一方、日本の広告は海外から見るとイメージ広告的すぎて、いったいなんのCMか最後まで見ても分からない、と言われるのもこの一つの事例かと思います。さらに、日本での会話運びでは、それ以上は聞かない、立ち入らない、という暗黙のルールがあるのに対し、欧米の方がやたらと「Why?」「Why do you think so?」と根ほり葉ほり聞いてくる、と感じる方も多いのではないでしょうか? 私も欧米人と仕事の空いた時間に議論をしていて、それ以上は意見なんてないわぁ、という自分の内部の「岩盤」に行きあたることがよくあります。日本人が英会話が苦手なのは、英文法よりもヒアリングよりも何よりも、実はこの自分の話を長々展開することがない、あるいは意見を表明する文化がないので、話が長続きしない、というところにもあるように思います。

森林の思考・砂漠の思考

そして少し視点が変わるのですが、地理学者の鈴木秀夫氏が唱える「日本人は森林の思考で欧米人は砂漠の思考だ」、という観点もまた、日本人と欧米人の話し方、考え方のギャップを語るものとして面白いです。日本人は森林の民で、視界が悪いことが前提で、ミクロな部分から会話をスタートするのを好むのに対し、欧米人は砂漠の民なので、鳥瞰図的に物事を捉えるのが好きで、総合的な議論を好む、というものです。言葉を換えると、「下から」ものごとを見る慎重な人間と、「上から」ものごとを決断する人間に分類される、と。日本では縄文晩期と弥生前期に森林化が進んで職人気質にも通じるメンタリティが醸成された一方で、ユーラシア大陸では5000年前に乾燥化、砂漠化が進み、一神教が確立され、「絶対的」なるものや「総合的」なるものが発生した、と、自然環境が思考様式を規定して、国民性に反映される様を、各種データからの科学的な裏付けもされています。
これまた腑に落ちる話です。というのも、わたくしが企業の情報発信から子どもたちのプレゼン指導に至るまで「発言の仕方」をサポートしている中で、つくづく感じるのが、日本人が話していて心地よいのは、根源的には「起承転結」スタイルなのかも、と感じることが多いからです。一つ一つパーツから話していく方が自然で、逆に物事を大局的に見てから微に入ったり、結論を先に言ってから理由を述べるというのも、実は何となく据わりが悪い。それに、そもそも論を振りかざすと嫌われる、というのもあるかもしれない。そんないろいろなことが背景にあって、日本人の話し方が長い時を経て形作られてきたように思うのです。そして、話し始めと終わりでは実は議題が変わっていたり、主語と述語の関係がなかったりというのはままある話で、通訳の方が一番苦心される点ではないかと思うのですが、これは教育レベルでの訓練の問題ではなく、遺伝子レベルで組み込まれてしまっていたり、言語が発生した時からそう規定されているというお話なのではないか、とも思えてきます。実に興味深いです。
そして、以前の号で、日本人の声が小さい理由が狭く海に守られた風土と文化によるものだと書きましたが、この掛け算により、ますます日本的なる話し方が形成されてきたように思います。

会話運びのルール

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もう一つ面白い研究が言語学者の井出祥子氏による日本人=「わきまえの文化」とする研究です。その研究では、テレビとラジオの1対1のインタビュー番組の録音を大量に分析し、会話の途中で言葉を挟む場合と、会話が終わってから話し手が交替する場合の二つの場面を分析し、話し手の交替が英語と日本語では違う意味を持っている、ということを突き止めています。話し手が遮る時、あるいは相手が話し終えて話し手が代わる場合、「応答」「確認」「同意」の場合は「同意」、「訂正」「話題転換」「反対」「質問」の場合は「反対」、として図示してみました。
日本人は会話の途中で同意し、相槌を打ちながら着地点、調和を求めながら聞くのに対し、英語の場合は相手の意見を確かめて、違う場合はすぐに相手の話を止めてでも自分の意見を差し挟むという結果が出てきます。逆に会話が終わってから出てくる話者の言葉は、英語では“Absolutely”である一方、日本語は「仰ることはわかるのですが、こんな見方も……」と言いつつ、ようやく持論を展開する、という研究です。2001年とこれまた若干古い研究ではありますが、これまた、深く首肯してしまう研究結果です。日本人は、ですから途中で話を遮られることに慣れていないわけです。

以上より

以上三点を総合してみますと、まず日本人はそもそもたくさん話すことを良しとせず、常識と思われる部分は話をしない、相手もそうであろうと考える。そして、ロジカルに話をする必要性を考えず、目の前にあることから話し始める。人の話を遮ってまで持論を展開することはない、相手もそうであろうと推測する、ということになります。
そう考えると、学校での教育によるもの、というよりはむしろこのような背景だからして現在の日本人が存在しているとすら考えられるわけです。

日本研究

今回、古い研究を読み進めていくと、ルース・ベネディクト氏の『菊と刀』をはじめとする太平洋戦争時の敵国としての日本、戦後の占領の対象としての日本人研究、その後60~70年代の驚きの復興から80年代の絶頂期までの日本脅威論(『ジャパンアズナンバーワン』『Smart Bargaining:Doing Business with the Japanese』など)に至るまで、アメリカが日本をいかに研究対象としてきたかが分かり感慨深いものです。日本人にとっては奇想天外に感じる部分も多いものの、日本人の特徴を知るには、実は国内の研究者が書いたものよりも、客観的でユニークな指摘が多いと感じます。今はもう、日本は海外から見て研究対象ではなくなって久しく、むしろJapanizationやらJapainともじられる程度になってしまったことに、悲しみを感じながら、これらの本を読み返しておりました。
「日本人は稟議を回すのに時間がかかるから、その間じっくり待つこと」、「日本人が微笑んだり、Yesと言ったりしても、本当の答えはYesではないかもしれないので気を付けること」などと相手方が気をつかってくれていたのは四半世紀も前のこと。その頃とは異なり、経済力の低下や人口減による日本の国力弱体化で、ますます自分のルールが通用しない世の中になるのだということを知らなければならない時代になっています。
遺伝子レベルだから仕方ないという話になると、またまた厄介なのですが、グローバルなルールというのが世にもう出来上がってきてしまった以上、日本人もそちらに合わせないといけない場面が増えてきてしまいました。日本人の話し方、会話ルールの特徴を知りつつ、場面ごとに即応する話し方というのを身につけられればグローバル時代の中でも、「最強の姿」に近づけるのではないでしょうか?
https://www.buaiso.net/business/economy/28709/


2015年6月7日日曜日

雑誌『BUAISO』 第11回目は「女性は「フラット」が気持ちいい?」です

拙稿アップされてました。今回は 教育ジャーナリストで友人のおおたとしまさくんの文章を引用させてもらい、女子の子どもの頃からの育てられ方と、社会人になった時の階層構造が不連続なんじゃないかな、という問題意識。運動会の話、そう言われてみれば、なぜ中1と高3が競うのか謎だったけど、背景はこういうことだったのか。
http://www.buaiso.net/business/economy/28443/
運動部出身の女子はそうでない女子と違うかもしれないし、私は中高共学じゃないから分からないことも多いのだけど、やっぱり男子校や男子のスポーツの世界とは違う気がしてならないのです。
ぜひいろんなご意見下さいな。

今週は海外から顧客が来日して、毎日4-5件のミーティングがありハードな一週間でした。ずいぶん会社のメンバーたちには助けられたものの、毎晩帰りが遅くなってしまいました。
そしたら来たー!! 足が痛いと言って学校に行けなくなる人(やむなく1人家に放置して出勤)、夜帰るなりいきなり目の前で吐く赤子・・(強いので翌日は保育園送りwwごめんね)
植物の水遣りと一緒で、愛情不足が影響?なぜここで?というのが多い気がします。なかなか人生、バランスをとるのは難しいです。

でも、今日はランチに入ったらちょうどこの雑誌が置いてあって、ほらほら私これこれ、みたいにお客さんに見せられて良かった。You are famous, Aska!って驚いてくれた笑。ありがたいことです。