2016年9月20日火曜日

アルバ・エデュのブログを更新しました ~「大人の自由研究」~ペリー来航を考える


「たった四杯で夜も眠れず」とうたわれたペリーの黒船来航。この夏、子どもの夏休みの自由研究に付き合ってペリーが来航した久里浜を訪ね、そして数冊の本を読んで、彼の生き様と日本の当時の状況について学んでみました。
 来航した久里浜は今ではこんなビーチになっています。マリンスポーツを楽しむ人でにぎわっていました。
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いったん4隻で来航して大統領の白書を手渡したペリーは、翌年9隻で来航します。2度目は、本来は11隻で来るはずだったのが、米国内の政権交代によるアジア政策転換などもあり、9隻に減らされた無念、それでも燃料供給や航行の安全は綿密に計算し、船上でも印刷機を用いて、新聞を発行したり、演奏会を催したり、船員の士気を維持することに腐心した様子もいろいろな本に描かれています。

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ペリーは来訪前、18-19世紀に出版された日本に関する書物を多数読み、「日本人はメンツを重んじるが、最初から高圧的に出れば、引っ込む国民だ」ということなど、日本人の特性を事前に勉強し尽くしていたことなどが印象的でした。歴史でも実生活でも繰り返し出てくるテーマですが、「相手を知る」ことは成功への第一歩なのですね。

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湾を一望して感じたことは、まだ蒸気船なるものを見たことがない当時の奉行や村民が、驚きようは想像に難くないです。一回目の来航時、国書を手渡して帰るかと思いきや、測量を始めた時には、民衆の恐怖心に火が付き、逃げ惑う人で人夫や風呂敷の値段まで高騰したといいます。

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近くにある「くりはま花の園」という植物園まで足を伸ばしてみることにし、長い坂道を歩いて丘をのぼりました。いくつかの本で、村民が見学するために上った丘、というのはおそらくここのことではないかと思います。ここからは湾全体が眺められますが、初めて見るものへの恐怖心とは裏腹に、多くの村民や村以外から噂を聞きつけて好奇心からやってきて、人々でごった返していたようです。
 こちらの記念碑は伊藤博文の揮毫によるもので、1901年に日米の関係強化を企図して、盛大な記念式典とともに建てられたものです。その後、戦時中に引き倒されたりしたこともありましたが、また1953年には米国の占領政策の一環として「ペリー」が和平の証として利用され、黒船祭りというのが盛大に行われた記録が残っています。

その後の年表を思い出して調べてみました。
ペリーの来航5年後には、通商条約が締結され、その後、開国へ向けて政治体制が変革するほどの転換を見せた日本です。中国のようにアヘンに侵されたり領土の一部が租界とされたり、また他の後進国のように植民地化されるまでには至らなかったのは、ラッキーだったと言えます。

日本中国
 1840 アヘン戦争(~1842) 
 1842 清とイギリスが南京条約
1853 ペリー来航 
1854 ペリー二度目の来航
日米和親条約の締結
 
 1856 清でアロー戦争(~1860)
1858 日本で安政五カ国条約の締結
(米蘭露英仏との修好通商条約)
 
1859 安政の大獄 
1860 桜田門外の変 
1868 大政奉還 

今回一つ興味深いと思ったのは、この黒船来航という非常事態に対処すべく、政府が当時、御家人から一般の村民にいたるまで、広くソリューションを求めたことです。鉄の棒を船底に刺しておいて喫水値が下がったら突き刺さるようにしたら、とか、材木組合からは材木で囲い込んだらよいとか、いろいろな意見があった中でもっとも光っていたのが勝麟太郎(海舟)の建白書。「軍艦を購入し、海軍を創設して、海兵の訓練を急ぐべきだ」、というものでした。当時売れない蘭学者だった海舟はこの建白書が政府の目に留まり、その後、体制内に取り立てられていきます。このように若い考えを取り入れる仕組みと気風が当時あったことが、紆余曲折はありながらも日本を救った一つの要素のように思いました。

アルバ・エデュでも、こんな風に自分の意見を堂々と言えるような子どもたち若者たちがどんどん出てくるようなお手伝いをしていきたいと強く思ったのでした。


参考文献
『ペリー提督 海洋人の肖像』小島敦夫
『ペリーと黒船祭』佐伯千鶴
『ペリー来航』西川武臣
『幕末史』半藤一利
『「日本人論」再考』船曳建夫