2016年1月5日火曜日

雑誌『BUAISO』 第15回目は「オーケストラの魅力 ~エル・システマの魔術」 です

 以前66号で取り上げたピアノに続いての音楽の話題です。
 オーケストラの魅力、について一度書いてみたいと思っておりました。特にベネズエラという、日本からは遠い遠い南米の国で40年前に始まった一つのプロジェクトについて、書いてみたかったのです。

プロジェクト「エル・システマ」

 そのプロジェクト、エル・システマ(El Sistema)は、ベネズエラで始まった公的支援による音楽教育プログラムです。1975年に経済学者で音楽家でもあるホセ・アントニオ・アブレウ博士が「音楽の社会運動」として始めた小さな活動に、当時の大統領ウゴ・チャベスが国家予算をつぎ込み、ベネズエラ全土にこのプログラムが広がりました。現在では全国約290か所の教室に約40万人の子どもたちが通い、オーケストラの数は30以上に上る、といいますから、同国の人口が30百万人弱であることを考えると、1学年の子ども全員が通ってまだ余りあるような人数です。いかに「公的」なものかがお分かりいただけるかと思います。バイオリンなどの弦楽器から、フルートやトランペットなどの管楽器まで、オーケストラで使うすべての楽器が貸与され、家でも練習できる仕組みとなっています。

犯罪国家から文化国家へ、そして世界へ

 当初のプロジェクトの目的は、増え続けるストリート・チルドレンが麻薬や武器に手を染めることを何とか食い止めようとした博士の発案に始まり、貧民街に住む子どもたちにも、犯罪歴のある子どもたちにも、楽器に触れる機会が提供されました。今でも教室に通う8割の子どもが貧困層の出身といわれます。子どもたちは、「拍手された時、自分の人生の中で初めて人に意味のあることをやったのだと思った」「楽器が辛い過去を忘れさせてくれ、人生が変わり、生きる原動力になっている」と口々に感想を述べているそうです。
 チャベス前大統領が支えた音楽活動は、低所得者向けの教育・医療・住宅などの社会開発プロジェクトの一環として、国営石油会社PDVSA(ペドベサ)からの収益を中心とする60百万米ドル規模の国家基金が後ろ盾となりました。結果的には、マクロでの犯罪率の低下には残念ながら至らず、また選挙不正や相次ぐポピュリズム的政策による財政ひっ迫からインフレが頻発するなど、同大統領の政治的手腕についての評価は厳しいものがあります。しかしながら、このプロジェクトの理念は世界中に広がり、いまや50か国でプログラムが展開されています。

ノリノリのコンサート

 このプロジェクトのすごいところは、その人口カバレッジや貧困対策だけにとどまりません。音楽的観点からしても、新しいというべきか、むしろそもそもの音楽の根源に迫るものというべきか、真面目なクラシックという常識を覆すような演奏が繰り広げられるのです。お腹の底から音楽を楽しんでるんだ!という、喜びがあふれ出るような演奏です。ぜひ読者の皆さまもYoutubeで「シモンボリバル・ユース・オーケストラ」を検索してご覧いただき、この感動を共有したいです。他の奏者の演奏には肩を揺らし、立ち上がりお尻を振り、という演奏は見ているこちらまで笑顔になります。

集団音楽活動の利点

 さて、少し一般論に戻り、オーケストラ・吹奏楽・合唱を含む集団で音楽を奏でることの効用について考えてみたいと思います。
 音楽は、自己をコントロールして辛抱強く日々練習することが必要である点、そしてその自己修養こそがより高みに自分を登らせるという点では、スポーツにも似たところがあると思います。またチームワークが土台となり、力の結集がより大きな成果を産むという点も似ています。ただ、外部と競争し勝つことが究極的な目的であることが多い集団スポーツと、集団で行う音楽活動との大きな違いは、音楽では、必ず他の奏者の音も聴き、それに自分が合わせ、共にハーモニーを紡いでいく、その重層的な音の組み合わせ・シンクロに敵味方がない点ではないでしょうか。そこにはスポーツとはまた違った他人との関わり合いや協調性の良さが育まれるものであると私は信じています。全員の心が一つになり、ピタっと音が合って音楽が完成した時には、どこからともなく心が震えるような感動がもたらされるものです。
 また、これらの音楽活動について言えるのは、スポーツに比べてプレーヤーの収容人数が多いこともあります。限られたポジションを巡っての競争はありますが、基本的にはたくさんの人数を集め、練習し、本番壇上に平等に登ることができ、その誰もがヒーロー・ヒロインであり、そして、家族や友人を含めて聴衆も楽しむことができるという意味では非常に懐の深いものなのではないかと思います。ベネズエラが貧困対策としてオーケストラの振興を促し、世界にそれが広まった背景にはこれらの利点が評価されたものと思われます。

エル・システマと日本の関係
 実はエル・システマと日本には深い関係があります。1979年にベネズエラに招聘されたヴァイオリニストの小林武史氏が、師である鈴木鎮一氏の確立したスズキ・メソードを広めたため、今でもベネズエラではスズキ・メソードに基づいた指導が行われているのです。また日本でも、東広島市が地域コミュニティの活性化と青少年の音楽指導を企図してエル・システマプログラムを採用したことが知られていますし、また福島県相馬市の復興を目的に一般社団法人エル・システマジャパンが設立され、震災後、外出がなかなかかなわなかった福島の子どもたちに楽器を奏でる夢がプレゼントされました。エル・システマジャパンのクラウドファンディングには筆者も寄付をして、先日はコンサートも拝見しに行きましたが、短期間にものすごい量の練習をした成果であるその演奏には胸が熱くなりました。

日本の子どもたちにこそ必要なのではないか?

nakatani (2) ベネズエラでは、子どもたちは物質的な貧しさを補い、武器や麻薬を手にしてしまうことを防ぐために、楽器の導入がなされました。日本の子どもたちはベネズエラに比べたら豊かであるとはいえ、所得の格差、教育の格差は進行しています。
 さらに筆者がもっとも懸念するのは年々増加するゲームやスマホに費やす時間の長さです。これらの結果として体力の低下や視力の低下がすぐ話題に上りますが、私は同時に文化面や精神的な豊かさが蝕まれていくのではないかと心配になります。下図のように楽器を演奏する時間が減っていることを含め、音楽に接する時間全体が年々減少しています。楽な方に楽な方に国全体が流れていってしまっているのではないか、その結果、自己修養や協調性を育む場が減り、精神的にも貧しくなってしまうのではないか、そんな風に憂慮しています。
 公園で顔を突き合わせてポータブルゲームに打ち興じる子どもたちをただただ非難したり、禁止したりするのではなく、少しでも代替案を示してあげられないか、と思うのです。チャベス氏が「武器を楽器に」、と言ったのと同様に、「スマホを楽器に」と叫びたい衝動に駆られます。

そこで

筆者が主宰する、音羽の森オーケストラ「ポコアポコ」
筆者が主宰する、音羽の森オーケストラ「ポコアポコ」
 思ったらすぐ行動に移さないと気が済まない筆者は、4年ほど前、地域の友人たちと子どもたちを巻き込んでオーケストラを結成しました。今では演奏者数も80名に上り、この冬も文京区関口にある聖カテドラル教会で演奏します。地元のオケというだけで、同聖堂が唯一、演奏を許可しているオーケストラだ、という事実を演奏3回目にして初めて知った時は感動したものです。子どもたちが大人に交じって一人前の顔をして楽器を奏でているうちに技能が磨かれていく様を見ながら、毎年1000人が集まるこのコンサートで、地域の皆さまにもクラシック音楽に触れていただけることは本当に幸せなことだと思っています。いつかあのように腰を振りながら演奏できることを夢見ながら今後も続けてまいりたいです。
 日本では文化予算が話題になると、「オーケストラという『1ジャンル』に予算はつけられない」というようなことが言われるそうです。福島のエル・システマの例は復興予算を活用したり、クラウドファンディングが奏功したりして、実現したと聞きます。
 ベネズエラに負けず劣らず国家財政に余裕のない国ですし、そもそもの基礎教育の予算まで削られようとしている中で、公的な枠組みで予算を増やすのは難しいことでしょう。
 しかしながら、音楽文化の蓄積は長く、また独自のメソッドまで編み出した力を持つ国であるはずです。民間の力、音楽の力をフル活用して、彩り豊かな文化を育める国にしていきたいと考えています。子どもたち、若者たちが精神面で満たされ、そして大人も共に心が豊かになるような取り組みができないものか。何より、音楽を奏でることの根源的な喜びを一人でも多くの子どもたちに味わってもらえないものか。
 エル・システマがベネズエラの子どもたちにしかけた魔法の力を参考にしつつ、引き続きみなさまのお知恵とお力を拝借しながら、地道な活動を続けたいと思います。